価値があるのは言葉ですか。それとも気持ちですか。

僕の好きな歌で「言葉など意味がないと唇強くかみしめてもきっと言葉しか伝える術はなくて」ってのと「感情なんて役に立たない。だけど心が追いつかない」という歌詞(それぞれ別の曲です)があります。

何度も書いてるように僕は見てる人に被災地関連の人が多いツイッターの方では極力泣き言怒りなどは1回除いて発言しないようにしていましたが、その他のも比較的少なめだったんですよね。
理由はいくつかありますがそのうちの一つが被災地の友人に何と言って励ませばいいかわからないということがあります。
見てるとやっぱりいらいらしてたり落ち込んだり怖がったりしているんですよね。
福島県の友人なんて今後差別されて結婚できないんじゃないかと落ち込んでるというほど...
そんな状況の人にこっちから声かけて薄っぺらいものに聞こえてしまうんじゃないかと思えてしまうんですよね。

そんな中、友人に失望することも。
ここに詳しく載せる気はしない内容ですが、友人に対してここまで嫌悪感を抱いたのは相当久々だわ。冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろうと。
それで我慢できなくなった友人が文句つけたらツイッターとリアルは別だとか知り合いだからってフォローするのは意味分からないとか、初めからツイッターで真面目にやる気がないのに云々とか、不快に感じるなら見なければいいとか、ブラックユーモアがとか...
...一応リアル知人は自分から極力フォローするようにしてるけどこの人に関しては確か前にアカウント作り直した際にわざわざフォローしてほしいとか他の人に広めてほしいとか頼まれた記憶があるんだけどな。おかしいなあ。
こんなときにもふぁぼってほしいとかそれ目当てで受け狙ってるんだろうけど何も面白くないのばかりツイートしてて少々目障りだったけど例の方針でスルーしてたんですが、さすがに限界。
最終警告を兼ねて他にもニュースで呆れるようなことが流れた際にこっちの例の方針(極力怒ったり、嘆いたりするのをツイッターで書かない)+それでも怒りたくなることはあると投稿。そのことを書いてしまった時点で俺のやってることが善どころか偽善ですらなくなってくるけどそれでも我慢できなくなることはあるのは確かなので。
そしたらちょうどタイミングが重なって同じ大学の人が俺の他に何人も同時に言っていいことと悪いことがあるとか、ツイッター上でも発言に責任を持つべきだとかツイート。
それでも何か言ってたけど誰も反応しなくて、さすがに危機感を覚えたのか言い訳じみたことを最後に書いてたけどもう...ね。
俺としては面白みも何もない上に風刺的な意味もないブラックユーモアに何の価値があるんだろうと思うんですけどね。
本心でどう思ってるのか知らないけど仮に本気で誰かを笑わせようとかしてたとしてもこんな言葉に価値はないと思います。
とりあえず次被災地の人を一切考慮してないふざけたこと呟いたらご本人の希望をかなえてリムーブするか。

その一方で特撮ヒーローとかの出演者が言葉を載せているアカウントがあって、それが本当励まされる感じで感動したり。
そういうのは気持ちもこもってるんでしょうけど、言葉だけでも十分すぎるほどに感じます、

はたして言葉と気持ちのどちらに価値があるんだろうかとそんなこんなでいろいろ考えたり。
どっちも大切だけど無意味になってしまうときも少なくないんで難しいです。
両方揃ってるのがいいんでしょうが。